佐々木文雄さん  岩手県奥州市
 
 

得意技 : 米作り  芸能 鉄棒の大車輪(若き日)


記念すべき第一話は、“とにかく人を楽しませたり喜ばせるのが生き甲斐なんだ”と、
笑わなくても笑っている顔なので、実際のところはどうなのかわからない、
しかし、絶対に心の底から笑っているに違いない、佐々木文雄さんです。
みんなからは“ふみあんつぁん”のニックネームで親しまれています。


さて、そのふみあんつぁんと話しをしていると、
みんな、いつの間にか自分の話をし始めてしまいます。

会話を聞いていると、
ふみあんつぁんの口から聞こえるのは、

“おぉぉ〜”、“はあぁぁ〜”が9割以上を占めます。

ですから、そんな相槌をかいくぐるようにして
インタビューは行われました。

この“おぉぉ〜”も、“はあぁぁ〜”のいずれも、
深い感動から発せられた感嘆が、
息吹に乗って発せられている、
そんな見事な相槌です。

そう、いわゆる、そばに置いておきたい人なんです。

で、会話では相槌を中心に、
相手を楽しませてくれるふみあんつあんですが、
“見せる”ことについても実に見事です。


宴会芸といっては野暮な、
それは見事なパフォーマンスを繰り広げます。

実は、そんなところに“血筋”があるとおっしゃいます。

昭和四年、岩手県の水沢町(水沢市を経て、現奥州市)で、七人兄弟の三番目として誕生しました。
生まれた家も、ご近所も基本的にみんな農業を営んでいる集落です。

 で、“血筋”といったのは、お父さんの卯之丞(うのじょう)さんから受け継がれた、
凝縮されたそのエンターテイナーとしての資質です。

この卯之丞さんですが、もう名前からして芸名ですが、その通り芸人です。

音楽や芝居がとっても好きで、いつも、家では三味線や小唄をたしなみ、
村祭りでは、その達者な芸を披露しては、喝采を浴びていたんだそうです。

で、拍手喝采だけではなく、子どもの目にも、飛び交う“おひねり”の意味を理解していました。

幼少のみぎり、そんな父の後ろ姿というより、それそのものを真正面から見続けたふみあんつぁんは、
その真似をすることがとっても楽しいことでした。

そして、楽しいってだけでなく、もう既に、実益があることもわかっています。
そっ、だから“、三つ子の魂、百まで”なんです。
一応、百才はまだ先ですが、きっと、この先、変わることはありません。

  

ハナシは大きく変わりますが、ふみあんつぁんがちょうど物心がつく、そんなころ、
日中戦争そして、世界中が不幸な戦争で暗闇に包まれていった時代です。

岩手で元気に育ったふみあんつぁんにとっても、そんな世の中の流れに逆らうことは出来ません。
水沢尋常高等科二年が終わり、三年生に進もうという時、招集がかかりました。御歳、まだ、14歳の時です。

東京の立川陸軍航空廠、さいたまの熊谷陸軍飛行学校の二カ所に赴任し、飛行機の整備に従事しました。
その間、空襲で、ほんの20メートル先に爆弾が落ちたことがあるそうです。

もうこの距離だと防空壕の中にいようが、爆風とともに襲いかかる土や砂利は、
もう、それそのものが爆弾のようだったといいます。ほんの少しズレていたら、
今、こうしてはいられなかったわけです。

しかし、そんな戦争も終わりを告げました。 今思えば、間違いなくそれは“幸”に違いありませんが、
当時の感覚では、幸と感じたのか不幸と感じたのかは、 もう思い出すことはできないといいます。

そんな20メートルの差をかいくぐって生き延びたふみあんつぁんは、戦後、水沢に戻ります。
まだ、年は16才です。しかし、ここからの人生は、もはや一人の青年として働き、そして、生きることしかありませんでした。
実家の農業を手伝いながら、自立した人生を歩み始めました。

しかし、敗戦国日本のムードは暗かった。

そんな時、一計を案じたのは、まだまだ元気な父、卯之丞さんでした。

“町に笑いを取り戻すんだ!”そう思い立った卯之丞さんは、家族や親戚で劇団を結成しました。

その名も“共笑劇団”

 

瞬間、噴いてしまいそうですが、ウソのようなホントの話です。

そして、住んでいる地域だけでなく、近隣の町や村の祭や集会に出かけていっては、三味線や歌や芝居を披露しました。
こうして、辺りが活気づいていき、そして、それにつれて、ふみあんつぁん自身の芸にも磨きがかけられていったのでした。

で、副業の、いや、本業の農業ですが、米づくりに加えて、繁殖の牛を飼ったり養豚を営んだこともあるんだそうです。
多いときには、140匹の豚を飼っていたときもあったそうです。

なぜそうしたのかはわかりませんが、自分が聞きたかったわけでもなく、
豚に餌をやるときには、必ず、ビートルズをかけたそうです。
なぜそうしたのかは、御自身にもわからないそうなので、深くは聞きません。

“まぁ、んでも、やっぱり、生ぎ物飼うのは大変だからぁ”って、
農閑期でも、どこにも出かけられない生活は、やっぱりしんどいし、
そう儲かるわけでもないっていうんで、やがて、牛も豚もやめたそうです。

で、“紅の豚って映画がはやったときには、
「そうきたか」と思ったなぁ”と少し上目遣いに話していました。
「そうきたか」の意味は、何度か尋ねましたが、どうも言語化するのが困難につき、ご了承ください。

しかし、米作りは、すこぶる順調でした。作付け面積当たりの収穫高では、
地域の生産者で第一位になり表彰されたほどです。
ついでに、戦争に行く前、尋常高等科二年の時には、相撲大会で優勝したこともあるそうです。

  

しかし、ふみあんつぁんは決して傲った発言をしたりはしません。
“うちの田んぼは場所がいいから育つし、うめんだ”と、軽くいいます。

岩手県でも有数の穀倉地帯、土そのものが肥沃な胆沢平野の中にあって、
その中でも、ふみあんつぁんの田んぼは場所がいいんだそうです。

奥羽山は駒ヶ岳から流れてくる水が、途中、ほどよく、土の栄養分を含み、そしてまた、ほどよい水温になるんだそうです。
丁度、稲が喜ぶ状態でこのあたりに水が流れ込むから、稲にもいいし、比較的手もかからないんだそうです。

“まっ、加えて言えば愛情だな”

愛情といっても、自分一人の愛情ではありません。奥さんの萬壽子(ますこ)さんと二人三脚で注ぐ愛情です。
1955年、御歳、26才で結婚してから、昨年で50年が経ちました。

“お互いに注ぐ愛情が、田んぼにもこぼれるのさ”なんて気のきいたハナシは作り話ですが、
お二人で、ズッと仲良く、愛情込めて米を作っています。

奥さんの萬壽子さんは、農業に従事する傍ら、長男、長女の二人の子どもを育て上げました。
さらには、地域の交通指導係を21年も務め、
近所の子ども達で知らない人はいない“交通安全のおばさん”としても活躍しました。

   

この話しを聞いている傍らで、ふみあんつぁんは、“そういえば、俺も、行政区長を7年やって、表彰された”。と、
聞こえるような独り言を言いながら、一瞬席を外しました。

数分後に戻ってきた、その手には、しっかりと額入りの表彰状が収まっていました。

今では、こうした公的な地域のお手伝いはやっと引退しましたが、何かと声がかかります。
そして、“こんな年寄りを頼りにしてくれるだけでうれしいことだ”といい、欲も得も無く出かけていきます。

ただ、目の前にあるそのことを誠実にやって生きてこられた、そんな姿にこそ、むしろ、徳が宿るのかもしれません。

今は、田植えの時期には手伝いに来る、二人の孫の顔を見るのが、何よりも楽しみだといいます。

  

農業一筋といういうより、演芸を加えて二筋です。園芸ではなく演芸です。 だから、誤字ではありません。
農業と同じくらい、、もしかしたら、それ以上に芸に磨きをかけて、周りの人たちを楽しませているんです。

まさに、秋の田園に広がる稲穂のように、実ほど頭を垂れ、
そしてまた、その輝きはシルバーなどではなく、黄金色に輝いています。

ドンと晴れ!

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【取材後期】

米を作っているのは、決して自分ではなく、自然の力、
つまり、土と水、そして太陽が作っているのだと繰り返しお話しになるのを聞いて、
宮澤賢治の“紫紺染めについて”という短編小説を思い出しました。

賢治の作品の中に時折現れる“山男”が、
“野菜はあなたがおつくりになるのですか?”と聞かれ時に、

“お日様がおつくりになるのです”と答えます。

なにかそういう言葉を準備しているのではなく、とても自然な感じでした。

とにかくいつでも笑顔でいるのがいいんだといい、
写真の一枚であろうとも、決して笑顔ではない自分は存在させたくないのだそうです。

なによりも、普通であることの喜びを知っている。そんな感じがひしひしと伝わってきました。

とても楽しい時間を過ごすことができました。

ありがとうございました。

 

 
     
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